⇒リィンバウムから出て行け

「へぇー。子供のころのセイロンか……。想像できるようなできないような」
「はっはっは。道場へ行けば当時の我によく似た小童どもが見られるぞ」
「……それって、わたしが行ったりしても大丈夫なの?」
「ああ、なにしろ掃除や炊事に励んでいるだけだからな。誰が見たところでどの流派かすらわからぬだろうし、」
「ほんとに!? 行ってもいいの!?」
「う、うむ」

「龍姫様、早く見つかるといいね!」
 こういった場合には、満開の桃花や霧に霞む湖畔を見たいとねだるものだろう。
 選んだ先が武術の稽古場とは、あまりに素っ気ない。
 あまり早く見つかっては、困るのではないか?
 セイロンは、駆けて行く後ろ姿を見送りながら耐えきれずに笑みをこぼした。



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⇒リィンバウムから出て行け2

「いつ龍姫様が見つかるかわからないんだもの。ちょっと落ち着かないなって」
「それについては、我も少々焦っておるのだよ。実はな、この世界へ来るにあたり父から申し渡されたことがあるのだが……。店主殿、ひとつ協力してはくれぬか?」
「うん、いいよ。わたしにできることなら」
「そうかそうか! 流石は店主殿だ」
「で、なんなの?」
「うむ、それがな。嫁を調達して来いと言われたのだよ」
「へっ?」
「我ら龍人は血筋を重んじる一族なのだがな、時に外の血を入れねば濃くなりすぎてしまう。といって源流を同じくする鬼妖界の者では意味がない。せっかくの稀有な機会だからと、まあそのように言われてな。我も五界一の花嫁を攫って帰ると、見栄を切ってしまったのだよ」
「さらってって……ずいぶん自信満々に言っちゃったのね」
「だからな、空手では戻れぬし困っておるのさ。店主殿、誰ぞ心当たりはないかね?」
「し、知らないわよそんなのっ!」
「だが、先ほど協力すると言ったであろう」
「セ、セイロンの好みなんか知らないもの! 勝手に探してよ!」
「ふむ。……では、見つけたらその後は手を貸してくれるのだろうな?」
「……いいわよ。約束しちゃったし、手伝ってあげる」
「あっはっはっは! 期待しておるぞ」


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⇒龍人の長、人間の里にて御伽話を語らうこと

「セイロン、どうかしたの?」
「ああ、いや……先ほどの話のな、結末を思い出していた」
「もしかして、悲しい終わり方とか?」
「そうだな。天女は羽衣を見つけ出し、男と我が子を置いて天へと帰ってしまうのだよ」
「……セイロンは、まだわたしが帰っちゃうかもしれないって、思ってるの?」
「そうかもしれぬな。無論、そなたを疑うわけではないよ。ただ、この幸福が我の身には余るのだ」
「ねえ、セイロン?」
「……何かね?」
「天女にとってはさ、羽衣ってなんだったのかな? ただ大切な物ってわけじゃないんだよね」
「ふむ……己の源流となるもの、ではないのかな。自身が自身であるために必要な物なのだろう」
「うーん。イスルギ様にとっての魔力とか? それがなかったら自分じゃなくなっちゃうってことね?」
「例えが少々不適切だが、まあ、そうだ」
「じゃあ、セイロンは気をつけなくちゃね」
「ああ、正直今でも不安で堪らぬよ」
「そうじゃなくって! 攫われないように気をつけてってこと」
「ふむ?」
「だって、わたしにとっての羽衣はセイロンだもの。帰りたくなったらセイロンを攫って行くんだから」
「それは……困るな」
「そうでしょ? 若さまならともかく、今は長さまだものね」
「では里心がつかぬよう、せいぜい励むとしよう。そなたの望みは何なりと適えるぞ。何を望むかね?」
「セイロン」
「答えになっておらぬよ」
「ひとは誰のものにもならないから?」
「その通りさ。そなたはそなたのものだ」
「またなんだか難しいことを言うのね。わたしはセイロンのものでもいいのに」
「あまりその類を口にするでない。幸運を使い果たしてしまうのでな」
「でもさ、幸運を手に入れるのに幸運を使ったら、結局幸運なんじゃない?」
「そなたこそ難しいことを言うではないか」
「似てきたのよ。だって……」
「ふむ?」
「なんでもない!」



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⇒恋なんてしていない

 店を片付けて遅い夕飯を食べて、リシェル達が帰ってしまってからようやく、フェアは置かれた状況の意味に気が付いた。 
 同じ屋根の下に、自分ともう一人しかいない。
 いや、正しくは自分以外の男がいる。
 もちろん今までだって、夜にこうして二人でいたことはあった。
 何度も二人だけで話はしてきたし、彼の部屋を訪ねたこともある。
 けれどもそれは壁の向こうや窓の中で仲間達が眠る、あるいは起きて聞き耳を立てていてもおかしくはない状況であって、今夜のように全くの二人きりというわけではなかった。
 いつもなら火のないところにも煙を見出す勢いのポムニットなのに、なぜ自分達にはからかいの一つも言ってくれなかったのかと、恨めしくなる。
 それで状況の変わるわけではなくとも、自覚があるだけ展開が早いかもしれないではないか。
 展開。
 何の?
「店主殿」
 そんなことを考えていたから、つい聞こえない振りをしてしまったのだ。
 してしまって、これは間違ったと思ったが、もう遅い。
 今夜は風がないから、開いた窓のせいにはできないだろう。
 さっきからペンを持った指は止まったままで、聞こえないほど帳簿付けに集中していた、などという言い訳もできそうにない。
 どうしよう。
 今からでも返事をしようか。
 そう思って結んでいた唇を開いた瞬間、セイロンはいきなり間合いを詰めた。
 近付いて来た、と表現するほどゆっくりしたものではない。
 これは絶対に彼独得の武術、確か《体裁き》とかいう動きだ。
 フェアも剣を使えるから、見ていなくとも空気の流れで相手の位置くらいは読める。
 だが彼は、空気を動かさずに移動した。
 正確には空気が動くより速く、なのかもしれないが、まるで彼が大気の一部のような身軽さだった。
「ひゃっ!」
 思わずあげてしまった声は、自分でも意外なほど大きい。
 それでもこれが冗談で、人の悪い笑みでも浮かべていてくれたならよかったのだが。
「……あ、」
 今夜から再び居候することになった龍人は、やけに難しい顔をして眉間にシワまで寄せている。
 急に、悪いことをした気になった。
 非常に苦りきった様子を、シルターンでは《苦虫を噛み潰した》と言うのだそうだ。
 そんな顔をしている。
「ご、ごめんね、セイロン?」
 だが、彼は返事もしない。
 それどころか、自分から近付いて来たくせに、まるで逆だという態度で一歩後ろへと下がる。
「ちょっと、」
 どういうつもり?
 先ほどまでの気まずさも忘れて、フェアは立ち上がる。
 開いた距離の分だけ近付いた。
 すると、また男は下がる。
 もう一歩近付いてみる。
 一歩後ろへ下がる。
 端から見ればかなり滑稽だろう。
 自分でも笑い出したくなるし、そんな自分にまで腹が立つ。
「もう、なんで逃げるの?」
 フェアが一歩近付く。
 セイロンは一歩下がる。
 一歩踏みだせば、一歩。
 近付いた距離だけ、離れていく。
 終いには、無理矢理に付き纏っているのは自分の方だという気がしてきて悲しくなった。
 立ち止まる。
 それきり動こうとしないフェアにようやく、渋々といった口調でセイロンは口を開いた。
「いや、そなたがな……」
 だが言いかけたところで、また何を思ったのか不機嫌に言葉を切ってしまう。
「わたしがなんなのよ!? 怒ってるならはっきり言ってよ!」
 怒鳴った勢いで、涙がにじむ。
 今までなら我慢できたことなのに、もうできない。
 一度見せた油断かもしれない。
 それがまた悔しくて、にじんだ涙が脹れ上がる。
 せめて零れる前にと、背を向けた。
「セイロン?」
 誤魔化すように、きつい声音を作って問い詰める。
 ひと呼吸置いて、背後からは陽気で豪快な、いつもの笑い声が聞こえてきた。
「こういった状況を瓢箪からコマが出る、と言ってな。いやいや、棚からぼた餅の方が近いか」
 今度はゆっくりと、気配が動く。
「少しも怒ってなどおらぬよ、そなたにはな。なに、種を明かせば、実に間抜けな話さ」
 温もりが向けた背へ触れるほどに近付き、耳の上から、息の届く距離で囁く。
「そなたが……あまりに、」
「もういいっ!」
 耳を塞いで、フェアは振り向きざまに飛び退いた。
 そんなんじゃない。
 わたしはべつに、そんなわけじゃない。
「言わなくていいよ! もういいからっ!」
「ほう?」
 半眼の男の口元には、最初に予測した人の悪い笑みが浮かんでいる。
 フェアが一歩身を退く。
 セイロンは一歩進む。
 一歩逃げれば、一歩。
 また、先ほどと同じ状況が繰り返される。
 ただ決定的に違っているのは、セイロンの退いていた方角は廊下へ続いていたが、今フェアが追い詰められている先は、扉一枚ない絶望的な壁だということだ。
「なぜ逃げるのかね?」
 体裁きも困る。
 こうしてジリジリと距離を詰めるのも困る。
 近付いちゃダメ。
 喉まで出掛かって、けれど飲み込む。
 音にしてしまって、それで彼が立ち止まってしまったら、最悪の場合この部屋から出て行ってしまったら、今度は抱きついてでも止めてしまいそうだ。
 返事をすればよかった。
 ためらったあの時に、もう互いの距離はおかしくなっていたのだろう。
 退いた踵へ、堅い壁が当たる。
 伏せた視線に、最後の一歩を踏みだす男の靴が映る。
 体を包み込む独特の気配が、風を伴ってうつむいた頬を撫でる。
 違うよ、そうじゃない。
 そんなわけじゃない。
 わたしは違うの。
「フェア?」
 笑みを含んだ声が問い詰める。
「……答えちゃって、いいの?」
 だって、すぐ帰っちゃうんでしょ?
「どう考えておるやら知らぬがな、答えて困るのはそなたの方だ」
「じゃあなんで、聞くの」
「決まっておるではないか。困らせたいのだよ」
「なに言って、」
 顔を上げる。
 けれども自分を見守る朱い瞳はただ穏やかで、もうからかいの笑みはどこにもない。
「よいかね、店主殿」
 ふいに低くなる声は掠れている。
 溜め息の混じるような声音だ。
「動くでないぞ。僅かでも動かば、そなたはこの世界の全てを失ってしまうのだからな」
 わけがわからない。
 確かに緊迫していたかもしれないが、そもそもの始まりは意識するとかしないとか、フェアにとっては重大な問題でも他人にとっては問題にもならないごく些細な問題で、世界がどうのというほど深刻な話ではなかったはずだ。
 まさか彼にはまだ隠している秘密でもあって、例えば龍人族はキスをしたら竜に至ることができなくなるとか、そういったとんでもない理由でもあるのだろうか。
 それとも自分には知らされていないことをまた彼は聞いていて、例えば古き妖精との響界種は、キスをしたら泡になって消えてしまうとか。
 キスをしたら。
 よりによって何もそんな例えばかり。
「またそなたは……我を見るそなたがどのような顔か、本当にわかっておらぬのかね?」
 耳まで熱い。
 言われなくとも、ひどい顔をしていることは想像できる。
 怒ったり泣いたり赤くなったり、きっと滅茶苦茶なのだろう。
「……攫ってしまうと、言っておるのだよ」
 困るのはフェアだと言ったくせに、叱られる子供に似た顔をしている。
 そのうちいつか思うままを答えてもっと困らせることもできるようになるのかもしれないが、今はとても素直になどなれそうにない。
「そんなの、困るよ。だって人生平穏が一番だし、こつこつ働きながらまっとうに生きるんだもの。ずっとこの町でおいしい料理を作り続けて、みんなに喜んでもらって、平凡に歳をとって平凡なおばあさんになって、若いころは異界の人に憧れたこともあったけどって、」
 口を挟まれないように捲したてながら、自分の言葉で泣きそうになる。
 ああ、やっぱりイヤだ。
 そんなの耐えられない。
「初恋だから実らなかったんだよって、この扇はそのひとのものだけど、もう声も思い出せないんだよ、わたしの一番はおじいさんなんだよって話してあげるんだから」
 フェアは手を伸ばして、帯に差したセイロンの扇を抜き取った。
 その扇を追う彼の手も動き、握り締めた指を包んで腕の中へと引き寄せる。
 あっけなく。
 こんなに近くいるのに、僅かな距離も埋めるように強く抱き締める。
「すまぬな、店主よ」
 詫びているのは口先だけという口調で、愉快そうに笑っている。
 それでも根は生真面目なこの男のことだから、本当にその日が来たらまた謝るのだろう。
 わたしはべつに、そんなわけじゃない。
 初めてのキスなのに、手にしたままの扇がジャマで重くて、床へ落としてしまってもいいのか、それとも元通り帯へ挟んだ方がいいのか、などと考える。
 お風呂に入ったのは昼の部が終わってすぐだけど、今日はお客さんも少なかったし、自分の趣味で勝手に選んで買って来たリシェルに感謝したいし。
 抱き上げられて運ばれながら、後で開けっ放しの窓のことを言わないと、物置側のドアに確か鍵を掛け忘れているのと、あちこちに灯りが点きっ放しなのと、などと数える。
 冷静に。
 とっくの昔に、平凡な生活はあきらめた。
 ここじゃないどこかでも、料理を喜んでくれる人達はいる。
 だけど、初恋は実らない。
 こんなのはよくあることで、ちょっと特殊な稽古を一緒にするだけと思えば、きっとただそれだけのことだ。
 楽しいから気持ちいいから興味があるから、ただそれだけで、べつになんてこともない遊び。
 だって初恋は実らない。  

 だから、わたしは恋なんてしていない。




2007.03〜2008.01 TALESCOPE